ギブアンドテイクの原則
自分の、人間関係についての考え方って、ギブアンドテイクの側面が強いですね。鋼の錬金術師風にいうなら「等価交換」というやつ? ちょっと違うかな。
ギブアンドテイク……相手に何かを求めるなら、自分も相手に何かを与えなければならない、という考え方ですね。自分が相手に何も与えていないのに、相手に何かを求めてはならないという。
これ、乾いた考えなのかな、という気がすることも。前述のようなギブアンドテイクの考え方を、まず、友人との関係について意識します。そして、特に大きいのが、恋愛や、結婚といった事柄についても同じような考え方をするんですよね、自分。
つまり、相手に愛情を求めるなら、自分も相手に愛情を注がなければならない……ということかな? 別にそんなにおかしな考えではないはずですが、自分の場合、一種の契約のように考えるんですよね。ギブアンドテイクを、そして、人間関係というものを。
友情にせよ愛情にせよ、自分が相手に何かを与えて、その見返りとして相手も自分に何かをくれるというような、そういうお約束がどこかにあるだろうという、「契約」的なとらえ方をしてしまっているんです。
別にそんな、「契約」なんていうものではないはずなんですけどね。実際に、ギブアンドテイクの原則はあるのだとしても。
ギブアンドテイクが確かにあるな、と感じるのは、「情報交換」を主目的として人と交流するときですね。こちらが相手に情報を与え、相手もこちらに情報を与える。互いに興味のある事柄について、互いに情報を交換する。まさにギブアンドテイクですね。
ただ、情報交換というのを常に意識しているわけでもなく……。本当はごちゃごちゃ考えずに、まったり人と接して、それで楽しければいいじゃんという風に思いたいのですが。
この、ギブアンドテイクを契約のように強制的な何かとしてとらえる考え方は、ある人に、自分の恋愛観や結婚観を厳しく批判されて、ショックだったという体験から生じたように思うのですが……。
乾いてるというよりも、ちょっと偏ってるかなと。現実の人間関係というのは、そんなに簡単にわりきれるものではないはず。ギブアンドテイクの原則は確かにあるかもしれないし、大事なことかもしれないが、それだけで人間関係がわりきれるというものではない。
現実の人間関係というのは、もっと複雑で、いろんな要素が絡みあっている。ギブアンドテイクだけ必要以上に意識するのはおかしい。まして、一種の強迫のように意識するのはおかしい。
一種の強迫っていうのはつまり、「俺がこの人に何も与えられなくなってしまったら、そのときこの人にとって俺の存在意義はなくなるだろう」というのを、恐れてるんですね。しかし必要以上にそんなことを考えるのは、相手に対して失礼なことになってしまう。
要するに、人間というのを非常に貧しい存在として自分はとらえてしまっているのではないかと。そして何となく、人間不信にもなっているのではないかと。
しかし現実は違う。人間は、自分が思っているよりももっと豊かな存在だし、ギブアンドテイクうんぬんを超越して動いていく側面も、かなりある。だからそんなに固定的に人間関係をとらえるのはよくない結果を生む……と思うのですが、なかなか抜け出せない。
まあ、相手に対してというよりも、自分に対する戒めですね。ギブアンドテイクというのは。人間関係においてちょっとそういうことを意識しておけば、ものすごくバカなことをやってしまう危険をある程度回避できるという。