待っている

「君はひどく危い綱渡りをやる男だな。どんなやりかたをするのか知らんが、今後も幸運を祈るよ」
(『ベイ・シティ・ブルース』より)

先日、久しぶりにチャンドラーを読み、とても面白かったので勢いに乗って短編集も読んでみました。

先日読んだ『湖中の女』と共通しているように思ったのは、腐敗した警察との闘いを描いた作品が見受けられることです。『湖中の女』のもとになったという『ベイ・シティ・ブルース』もそうですし、『犬が好きだった男』にしてもそうです。私がこれまで読んできたチャンドラーの作品には、警察との闘い、というのはあまりなかったように思うので、意外に感じました。

犯罪者に協力する警察官がいると同時に、市民の安全を守るため真面目に働こうとする警察官もいる。主人公は真面目な警察官と協力して、事件の犯人、そして事件を揉み消そうとする他の警察官と対決します。びっくりしたのは、警察の上部、警察署長でさえ腐敗しているということ。警察署長と私立探偵との闘いで探偵が勝利するなんて、まさに小説ですよね。

以下、作品ごとに感想を。

  • ベイ・シティ・ブルース

長編『湖中の女』のもとになった作品。『湖中の女』とほとんど同じようなお話かと思いきや、違っている部分も多いです。特に、最後の辺りの展開が違いました。腐敗した警察との闘いがかなり鮮烈に描かれています。私がこのお話で好きなのは、依頼人を殺され、報酬をもらえる見込みがないのに、それでもフィリップ・マーロウ依頼人の意向に沿うよう精一杯活躍する点です。もちろん、そうした無償の行為の背景には、「殺人事件の犯人を警察が隠蔽するなんて許せない」という正義感もあるでしょう。でなければ、報酬ももらえないのに警察署長らと真っ向から対決することの説明がつかないように思います。主人公のこの強い正義感こそ、チャンドラーの作品を安心して読める理由であるのです。また、この作品のタイトル、かなり好きですね。ブルース、とつくタイトルにひかれるようです。

  • 真珠は困りもの

タイトルはちょっとな、という感じですが、小粒ながらなかなか面白い作品です。主人公はどうやらフィリップ・マーロウではなく、いわゆる「有閑紳士」というか、「高等遊民」というか、そういう、お金があって自由に時間を使える、貴族っぽい男性です。本当に、仕事なにやってんだろう? と、ちょっと怪しい感じもしないでもない主人公でしたが(笑)。お金持ちの家から盗まれた真珠の首飾りの行方を追っていくのですが、わりとすぐに事件は解決するのに、どんでん返しが何度かあって飽きさせないです。特に最後の展開が見事。手紙の引用で終わらせるのも好きですね。

  • 犬が好きだった男

タイトルをみると、わりと穏やかな、大事件はないだろうぐらいの印象を受けるのですが、全然違います。最初から終わりまで、とっても激しいバイオレンスの連続で、まさに小さな町を大騒ぎに陥れる大事件が描かれています。しかも、腐敗した警察が激しいバイオレンスにかなり関与しているのだから怖いです。主人公は、フィリップ・マーロウなのでしょうか? 名前が出てなかったように思いますが、とにかくタフ。この作品で、主人公は、家出した少女を連れ戻して欲しい、という仕事を完全にこなしてくれます。多くの死体を後に残しながら。私が好きなのは、少女を連れまわしていた犯人が「〜すれば、この娘を見逃してくれるかい」といったときに主人公がすかさず「そもそも彼女を捲きこんだのはお前じゃないか」というところです。逃がすわけにはいかない、という固い決意。さすがの犯人も言葉を失ってしまいます。クライマックスの署長との対決は、大変緊迫感に満ちていました。全体をとおして、この作品、映像化を狙っているんじゃないかというくらいアクションが派手でしたね。思わぬところで、クビになった警察官が主人公に協力してくれる点も面白かったです。男同士の友情、というのをうまく描いてくれるのもチャンドラーの特徴ですね。

  • ビンゴ教授の嗅ぎ薬

こ、これは異色です。何と、透明人間が登場するのです。トリックではなく、本物の透明人間です。つまり、SFですね。チャンドラーはこんな作品も書いていたのですね。解説によるとこの作品、本格探偵小説を揶揄しているそうですが、どの辺でどう揶揄しているのか、私にはちょっとわかりづらかったです。まあ、透明人間なんてものが本当にいて事件を起こしたら、どんなに頭のいい警官でも探偵でも困惑するでしょうね。意外という感想がまず第一でしたが、果たして面白いのかどうかはちょっとわからない作品でした。

  • 待っている

この短編集(というか中短編集)の表題にもなっている作品です。解説によると、チャンドラー唯一の短編(ほかは長編か中編)とのこと。し、しかし、この作品はすごい。確かにとても短いのですが、大変インパクトがあって、読み終えた後にも長く余韻を残します。この作品が本の表題となったのもうなずけることです。ホテルで働く探偵が、宿泊している女性のために、精一杯の配慮をしようとします。その過程にたちこめるサスペンス。さまざまな想いを抱える男たちのせめぎあいがひとつのドラマを生み出し、緊迫したラストを迎える。何も知らず恋人を待ち続ける女性の姿が、とにかく印象的。何というか、いかにもハードボイルド、という感じのする作品ですね。ハードボイルドって何なのか、って私もはっきりいえないのですが、この作品はとにかくハードボイルドですね。最近のベスト短編になりそうです。



というわけで、一番よかったのは表題作の『待っている』でした。この『待っている』は、本当に朗読したくなるくらい好きな作品ですね。まっ、朗読には向いてないと思うのですが(笑)。やはりチャンドラーは偉大です。